元舛田山関の奥さんに会ってロシアに行っていた話をしたら
”なら先生うちの部屋の騒動知らないのでしょう?”と言われた。
このところテレビの報道番組を賑わしていた 貴乃花の部屋の人たちが千賀の浦部屋へ という話になるたび私が書いた看板が画面にアップで出ていたとのこと。
橋場に立派な部屋を立てて独立 御弟子さんと仲良く家庭的な毎日を送っていた元舛田山、元千賀の浦親方 は中曽根さんに共鳴 拓大へ 市役所か県庁に就職も決まっていたのに 元栃錦にスカウトされて力士になった という頭脳も人格も優れた人物。
結婚を機に新しいマンションに入居したところで 知り合いになった。
私の個展に推薦文を寄せてくださったのは良いが ”それにしても 奥さん(私のこと)の食欲には驚かされます。” と本当のことを書いてしまい 私は 後から 知り合いに 御相撲さんによく食べると感心されるとは一体なんだ! と呆れられてしまった ことなどが懐かしく思い出される。
ということで もうニュースの旬は過ぎてしまったかもしれないが もしまたテレビに木に書いた 千賀の浦部屋 という看板が映ったら それは 私の字 です。
モスクワの全部のラジオ局が入っている というビルの中にイリナさんをマズリク先生と訪ねる。
ソ連邦時代から番組を持って多くの有名人をゲストに迎えて来たというベテラン。
日本への関心が高い今ゲストを紹介して とたのまれていらしたらしい。
1時から本番 15分くらい待つ間もマズリク先生はいろいろなお話を聞かせてくださり、私は学生時代に戻ったようにひたすらノートをとる。本番で何を話すか テーマは何かとの話をする暇もない。
本当はロビーで花11点を飾っていただくはずだったのに事務所移転で
中止となった。
申し訳なかった と言われたのでマズリク先生に差し上げようと持って行った 花 の作品を こんな感じでした とお見せしたら プレゼントと思われ パソコンに立てかけ、それを話題に話が始まってしまった。
余り普段は聞かれないような根本的な質問が多く さて どう答えよう
と思うことが多かったが1時間もあると あれもこれもと 話は広がり 今迄いろいろな国の人たちにいろいろな切り口で書の説明を平安時代の貴族文化を土台にしてして来たことが役に立ったと思った。
普段褒められることのない私の声を 質問に答える様子、 内容にぴったりな明るい声と態度でとてもやり易かった、良かった、とおっしゃっていただいた。
来週火曜夜7時から一時間のプライムタイム だそうです。
ラジオオルフェウス
昨夜モスクワのナショナルホテルに戻ると 5月に知り合いになった受付のお嬢さんが今回30日迄滞在していた同じ部屋を用意して下さっていたことが解った。
大荷物と一緒に部屋に入った時 安心して疲れが半減する感じだった。
こうして外にいても自分を取り戻せる場所が出来てくるのだと思った。
今日はモスクワ大学のマズリク先生がオルフェウス放送局にお連れ下さる。
言葉だけで書を知らない司会者を通じてその先の聞いている方に理解してもらう というのは私にとって未知の世界でとても興味がある。
伝える ということは誠に難しい世界 と実感して来た。
自分が大事に心にしまっていた想いや考えを言葉にした途端 音と一緒に空中に消えてしまう虚しさを知り、言葉を選ぶ際のボキャブラリーの無さが一番の問題とは解っているが、こちらの遠慮 、恥じらいも要因かと、、、
コンプレックスなのかも知れない。
どんなことを紹介出来たかまたご報告しますね。
今テレビでインタビューをしている。
相手をイライラさせて自分のペースに引き込もうとしている若い女性司会者が言葉を相手に重ねたり 急に柔らかい口調にしたりしている。
相手の90歳過ぎた国の指導者のアップ映像を見ると 口元の柔らかい笑みは消えないが目の光がその都度変化しているのがわかる。
相手の目を見つめ 反応していたら 時間内にニュースになるような話は聞き出せない職業なのだと思う。
外は寒そう
今の空
モスクワの駅のホーム
2016年春 モスクワの日本大使公邸で夕食をいただいた時「2018年は日本におけるロシア年 ロシアにおける日本年です」と大使にお聞きしてから2018年がある種忘れられない年になっていた。
我が家の過去帳の中で一番古く記されている 梅岳玄竹居士が元和四年(1618)二月没 ということに気付き 他の項を見ると
観阿妙隻信女 文化十五年(1818)五月没とあるのがわかった。
以前、八ツ橋のお店の遠い年忌に 黒白でなく緑色の帯の熨斗袋に追福と書いて参加した という知人の話しを聞いていたので、
追福 という気持ちの良い言葉を知りながらこの機会を逃してはいけないと考えた。
しかし なんとも呑気で物好きなことにも思えて お花と足をお任せできる方と三人で和尚様に法要をお願いした。
本堂でのお勤めの間、四百年も昔の人を身近に感じられ 梅雨の晴れ間の庭に出ると何かとてもサッパリと胸の中が広くなったように思えた。
写真は二人の卒塔婆を手にする私です
中一の時の作品
嵯峨天皇 李嶠詩 の臨書
小学2年生から高校3年生まで柳田泰雲先生主催 全日本学生書道コンクールで毎年作品を皇太子殿下台覧にしていただいていた。
中一の時の作品と賞状を父が欄間に飾っておいてくれた。
昭和33年のもので茶色になっているのだが 38年間続いているクラスの小規模な展示会に一緒に並べていただくことにした。
目に留めた方が「お上手ね。 お小さい時からやっていらしたのね。」とおっしゃってくださった。
子供の成長のみを人生の楽しみにしていたように思える父母は小さいものでも処理してしまうことなく保存しておいてくれた。
父もそのクラスの方達に良くしていただいていたが、出品者の方が「大先生がこの場にいらしたら、さぞお喜びになられたでしょうね」と何度もおっしゃってくださった。
雀ヶ丘にて。建物はモスクワ大学。
青いテントはワールドカップお土産展示場。
雀ヶ丘広場にて。
同じ場所にて。有料トイレ
モスクワの今の緑の美しさに白鳥の柄の帯です。
私の席の入り口
私の席からプーチン大統領、安倍首相ご夫妻の座られる席がよく見えます。
会場から出たところ
聖タチアナ教会
キリル文字を作った聖キリルとメフォージを祝う日
御茶ノ水のニコライ堂を建ってた聖ニコライ
亡くなった時、ニコライ二世からも明治天皇からも供花を受ける
聖タチアナの日(27日)、白樺が飾られている
モスクワ大学アジア・アフリカ諸国大学 マズリク教授を訪ねる
チャイコフスキー劇場の前で
チャイコフスキーの銅像の左手の形が不自然な理由を教えていただき
ついでにこのポーズ
(5月27日)チャイコフスキー劇場の前で合唱していた子供達