ウクライナ大使夫人のオレナさんが 私が高校三年の時 朝日新聞社主催の第一回全国高校英語弁論大会で話した内容を知りたいとおっしゃって下さったので 何十年ぶりに引き出しから出してみました。
これは 書を教えていただいていた故柳田泰雲先生が 競書雑誌に載せてくださったものです。当時あわてて英文を訳したものですのでおかしな日本語ですが そのまま写してみます。
柳田先生が紹介文を書いてくださっています。
小澤悳子さんは太田支部長小澤恵雨氏の愛嬢.
去る11月に朝日新聞社主催の第一回全国高校英語弁論大会で関東代表二名の一人に選抜されました。決選で優勝5名の中には入れませんでしたがその実力は全国25名の中でも優秀な成績であったとのことです。
現在栃木県立足利女子高の三年で、本誌でも高校生中唯一の師範免状所有者です。この文章は英語で小澤さんが弁論された和訳です。
私自身の経験から
小澤悳子
日本のことわざに”へたこそ物の上手なれ”というのがありますが私はこれを本当だと思います.又ほかに”好きこそ物の上手なれ”というのがありますが、これも私は本当だと思います。
私は三歳の時書道を習い始めました。その頃は私の祖父や両親が熱心に習っていました。
彼等の影響で筆をとるようになりました。又はそうさせられたのかも知れません。
私は5人の大人の中にまじった、たった一人の子供だったのです。
三歳の子供にはほとんど漢字を書くことは不可能でしたが、それをまねる事により書けるようになりました。
私が五歳の時、父は毎朝6時から一時間ずつ寒くても暑くても、離れで練習させました。それは寒稽古、土用稽古と呼ばれています。寒い朝火の気のない広い部屋で、私は父に息で両手を暖めても良いと言われるまで、筆を動かし続けました。私は朝食の時の暖かいお茶碗がどんなにすばらしく感じられたかを忘れられません。
私は筆をもつようになってから14年間”へたな人でも絶え間ぬ精進によって、どんな芸術にでも進歩を示すことができる”という考えのうえに生活してきました。
ここで私が一生忘れられない心暖まる思い出をお話しようと思います。
私が小学校五年生の時のことです。上野松坂屋の7階ホールでの授賞式の際 特選以上の賞を得た人900人、その中に父母と私自身も混じっていました。 の前で、マイクが”群馬県の小澤悳子さん楽屋まで”と告げたのです。席上揮毫があることは知っていましたが私がそれに選ばれるとは夢にも思いませんでした。
日本書道の第一人者である柳田先生に筆をお借りして、横に草書で三文字書きました。先生は私のそばで微笑されながら見ていらっしゃいました。私は先生が私の作品を批評されて”横に書くのは大変むずかしいものですが、さすがに3歳からやっているだけあって字がきちんとあてはまり非常に立派な出来栄えです”とおっしゃられた時、どんな感じがしたか、とても言葉では言い表せません。
それ以来私の作品は5ケ年連続して皇太子殿下台覧の栄誉に浴しました。又 昨年柳田先生の学書院での師範試験に合格しました。これは16歳では日本で珍しいことだといわれます。
書の道を究めるのは非常にほど遠いことです。しかし人はたゆまざる努力によりそのきわみまで達することができます。
私は筆を手に一生を意義あるように生活していきたいと思います。もう一つの望みは、この日本独特の文化である書道を世界の人々に伝えたいということです。