麻布のアメリカンクラブで書のクラスを担当していたことがある。
熱心に通っていたアメリカ人の女性が家族と一緒に数日間急に来日した。
20年ぶりに会うと 100円持って麻布十番の鯛焼き屋さんに行くのが好きだったというお嬢さんは勤めを始めているし息子さんはこれから弁護士になるところでもちろん背も親より大きくなっている。
太田の家に遊びに来た時我が家のお墓に連れて行って 大きな自動車会社の東洋支社長をしていた旦那さんに私の手には負えない強い草を抜いてもらったら彼の手から血が出たことが忘れられなかったが彼らにとってもそれは面白い思い出になっていたらしい。
今日は自分が慣れ親しんでいた外国を再び訪れる機会を目一杯楽しんでいるのがよくわかって一緒にいた私も嬉しかった。
一つの文字に対し カタカナ ひらがな 楷 行 草を全部一度に習うのは大変だったが 言葉の意味 それに関する雑学的なことなども知ることができて楽しく有意義なクラスだったと言われた。
彼らは本社のあるミシガン に住んでいるので ”親類のような家族が住んでいたウィスコンシン州の小さな町オークレアに何度か行って そこからミシガンに行ったことがある” と私が言うと ”昨日仕事で頼んだ正式通訳はオークレアの大学に留学していたと言っていた。”とその偶然にびっくりしていた。
”では日本の上智大学の人ね。” と私が言うと ”そう そう言っていた。”と
1964年夏私の家にAFSの留学生として2ヶ月滞在していたクリスティの父親はウィスコンシン州立大学オークレア校の学長に大変若くしてなり学校を発展させた人だった。
子供が日本にくると決まった時点では彼らにとって日本はトルコと同じくらい身近でない外国だったらしい。
クリスティは毎日細かい字で手紙を書き留守宅では それによって日本のいろいろな場所 人々その他を知ることになった。
私の父母が せっかく日本に来たのだから日本を知らせる為に彼女の時間を使う、と英語での社交から極力彼女を遠ざけ広島・岡山 京都、法隆寺の夏季講座 その他を私と二人で回らせた。
1966年に私がオークレアの家に3週間いた時には人が集まるいろいろなところで クリスティが撮った日本のスライドを見せながら二人で日本についてしゃべったり 歌を歌ったりした。
その話を聞いた人が今度はこの集まりで話をしてほしい と頼んでくることも多く女の子二人はなかなか忙しい日々を送ることになった。
さて 感覚的に日本が近くなった為姉妹校を日本から ということになったらしく 数年の間に上智 関西大 と提携を結んだ。
というような懐かしいことを今日の話題からパーっと思い出し きっかけがあれば無から生じるものがあることを実感した。
何の見返りも期待せず あるがままの姿勢で人に相対してきた呑気な両親の撒いた種が誰も知らないところで実になっている、と感謝している。
祖父や両親にお辞儀の仕方を教えられてきた。
どのタイミングでどのくらい頭を下げるか その角度は 手は 足は など 子供の私は素直に吸収したと思う。
しかし 若い時には心にある感情そのままを丁寧な態度として表すのが恥ずかしかったり、いろいろ失敗したり 後から反省するばかり ということも大変多かった。
今日 ある機会に 私の方がより深いお辞儀をしなければ と注意しながら 心からの姿勢をとったが その時の自分の嬉しい気持ちがとても素直に動作に出て 一生忘れない瞬間となった。自分でもきれいな姿勢だったと思う。
皆で呑気なことをして育ててくれた家族に感謝している。
クラスを終えてのエレベーターで日野原先生とご一緒になった。
“先生とエレベーター ご一緒できて 光栄です” と申し上げると ”これから三時からの 。。様の誕生会に伺うところです。ここでの会が伸びたので駆け込みです。” と答えてくださった。
エレベーターから車まで大股で まっすぐに足を伸ばされ さっさ とお歩きになる。
私の父は 90歳過ぎまで 老人という感じがなく 太田市で 100歳になると 百万円のお祝金をいただけるので それをいただいたら市のどこに寄付するか を楽しんで想像するのが常だったが それが 少しも不自然なことには思えなかった。
亡くなる数ヶ月前急におじいちゃまになり まず毎日を楽しもう という姿勢から 机の前で 殆どの時間を過ごすようになったので テレビに日野原先生がお出になると 私が ” 同じ年 同じ月日 の生まれのあちらは あんなにシャンシャンと、、、” と言うと 何か 嬉しくない という顔をした。
最後まで しっかり 生ききってくれた父にはとても感謝している。
ウクライナ大使夫人のオレナさんが 私が高校三年の時 朝日新聞社主催の第一回全国高校英語弁論大会で話した内容を知りたいとおっしゃって下さったので 何十年ぶりに引き出しから出してみました。
これは 書を教えていただいていた故柳田泰雲先生が 競書雑誌に載せてくださったものです。当時あわてて英文を訳したものですのでおかしな日本語ですが そのまま写してみます。
柳田先生が紹介文を書いてくださっています。
小澤悳子さんは太田支部長小澤恵雨氏の愛嬢.
去る11月に朝日新聞社主催の第一回全国高校英語弁論大会で関東代表二名の一人に選抜されました。決選で優勝5名の中には入れませんでしたがその実力は全国25名の中でも優秀な成績であったとのことです。
現在栃木県立足利女子高の三年で、本誌でも高校生中唯一の師範免状所有者です。この文章は英語で小澤さんが弁論された和訳です。
私自身の経験から
小澤悳子
日本のことわざに”へたこそ物の上手なれ”というのがありますが私はこれを本当だと思います.又ほかに”好きこそ物の上手なれ”というのがありますが、これも私は本当だと思います。
私は三歳の時書道を習い始めました。その頃は私の祖父や両親が熱心に習っていました。
彼等の影響で筆をとるようになりました。又はそうさせられたのかも知れません。
私は5人の大人の中にまじった、たった一人の子供だったのです。
三歳の子供にはほとんど漢字を書くことは不可能でしたが、それをまねる事により書けるようになりました。
私が五歳の時、父は毎朝6時から一時間ずつ寒くても暑くても、離れで練習させました。それは寒稽古、土用稽古と呼ばれています。寒い朝火の気のない広い部屋で、私は父に息で両手を暖めても良いと言われるまで、筆を動かし続けました。私は朝食の時の暖かいお茶碗がどんなにすばらしく感じられたかを忘れられません。
私は筆をもつようになってから14年間”へたな人でも絶え間ぬ精進によって、どんな芸術にでも進歩を示すことができる”という考えのうえに生活してきました。
ここで私が一生忘れられない心暖まる思い出をお話しようと思います。
私が小学校五年生の時のことです。上野松坂屋の7階ホールでの授賞式の際 特選以上の賞を得た人900人、その中に父母と私自身も混じっていました。 の前で、マイクが”群馬県の小澤悳子さん楽屋まで”と告げたのです。席上揮毫があることは知っていましたが私がそれに選ばれるとは夢にも思いませんでした。
日本書道の第一人者である柳田先生に筆をお借りして、横に草書で三文字書きました。先生は私のそばで微笑されながら見ていらっしゃいました。私は先生が私の作品を批評されて”横に書くのは大変むずかしいものですが、さすがに3歳からやっているだけあって字がきちんとあてはまり非常に立派な出来栄えです”とおっしゃられた時、どんな感じがしたか、とても言葉では言い表せません。
それ以来私の作品は5ケ年連続して皇太子殿下台覧の栄誉に浴しました。又 昨年柳田先生の学書院での師範試験に合格しました。これは16歳では日本で珍しいことだといわれます。
書の道を究めるのは非常にほど遠いことです。しかし人はたゆまざる努力によりそのきわみまで達することができます。
私は筆を手に一生を意義あるように生活していきたいと思います。もう一つの望みは、この日本独特の文化である書道を世界の人々に伝えたいということです。
今月からホームページを開き、”一言”を時に書くことに致しました。
一回目は6月21日に生を受けたということと共に私の背骨、
原点となっている写真です。
この先 お付き合いのほど よろしくお願いいたします。